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記憶 [social[社会事象]]

3月になり、ニュースなどでも、20年前の地下鉄サリン事件について、
盛んに報道していますが、事件の被害者は事件を風化させたくないと考えるパターンと、
思い出したくもないというパターンとあるみたいですね。

でも人間というのは、トラウマが治らないうち、傷が癒えないうちは、
その場所すら見たくないとか、思い出したくないとかって思うものです。
恐怖や、苦痛との戦いですし、記憶が鮮明に蘇ってくることが怖いという
側面を否定できない。

かくいう私にも、そういう経験はあります。私の場合は
命を取り留めたし、サリン事件のような悲惨な事件とは違うにしても。
誰かが理解してくれて 、応援してくれたらって思う部分もあるはず。
それでずっと勉強しているんです。
福祉という勉強は、理不尽と立ち向かう勉強だとも
言います。

事故に遭った被害者ですら、その場面の恐怖感から
立ち直るのには、時間がかかる。
そのことを主張すると、すぐにどっちが悪いかという
水掛け論になってしまい、余計に傷が深くなるなんてことも、
少なくはないはず。
刑法や民法の裁きだけではないはず。
死刑でも、許せないパターンだってあるはず。
加害者側の責任、被害者側の過失?
そんなことだけで片付くものか、と思う。
周りで見ていた傍観者だって、傷を負うこともあるし、
誤認逮捕や、逃亡ということに対する過失は、警察が全面的に
賠償してくれるのか?
そのことで、傷を負ってしまったら簡単には癒せないでしょ?


自分自身が誰かの支えになって、助けたいという思い。
この勉強をするということは、自分の傷を受容し、容認する、
トラウマを克服する必要があることです。
もちろん、自分自身で克服していくから、人生なのだから、
いたしかたないが、一人一人では、力は小さい。
克服できなければ、挫折するかも、という宣告を講義でも
されたことがある。
インフォームドコンセプトだったりして。

私自身物事が、協調になるように気をつけなくてはいけないし、
克服ができないことがスパイラルを巻き起こす原因に
なってしまうことがある。(。-_-。)
これは、音楽の、和音と不協和音のようなもので、
きっと、すべてに通じること。
協調が望ましく、明るい曲もあれば、
やはり哀しい音楽は、哀しいし、
マイナーな曲調でもひとつの音楽は
音楽だ。*\(^o^)/*

資格をとっても、その部分の克服が自分に必要で、人が協調するために
何が必要かを考えなくてはいけないし、そのために今持っている資格と、
考え方や倫理観ということを叩き込まなきゃいけないし、
だからと言って、実際にその資格を行使してその物事を
行うことは、それがどういう風に人のために社会のためになるかということを、
周囲が理解して、認めてくれないとただの自己満足になってしまう。

例えば、あなたが事件の被害者だったとして・・・・・
本人は、そのことも思い出したくない、関係のある地名も聞きたくない、
関係のある言葉も聞きたくないとして、そのことがトラウマだったとしたら。
理解をしない人が近づいて、理解できると力説しても、その人の心には
決して届かない。
届かないということは、解決にはならない。(-。-;


見たくない、思い出したくないという人への配慮が必要な
場合もある。
思い出したくない人には、助けの手が届かない?
思い出したくない人を
助けられる方法もある。本当は。

力では解決しないこともたくさんある。
誰かが力で解決した問題だけでは、戦争は無くならない。


でも、その時に独力なら、自分自身の幸福や協調が必要不可欠になる。
それも、説得力を持たせるなら、そうとう強い意志が必要。
被害者同士の支援なら、トラウマを克服できるかも。
という視点が、配慮になると思っていただきたいです。

考えてください、一人一人、ひいては、自分自身のために。
誰のための幸せ?は、社会の一員として、という想いだと考えます。
みんなの幸せが自分の幸せ、です。♪( ´θ`)ノ
ほら、オールフォアワン、ワンフォアオールっていうでしょ?

何年も、そういう想いでボランティアなんかをしましたが、
なかなか難しく、自分自身の問題をきちんと克服したいです。
私の心のことなどわかってたまるか、と思う自分が
今も心の中にいて、でも、そのことを克服するしか方法は
ないわけで、本当は、そういう自分を変えるのは自分自身でしかないし、
自分の経験によってしか克服はできない。
その時に理解をしてくれる仲間は、そんなにたくさんはいないわけだから。
待っていても、誰も変えてはくれない。
自分自身を変える努力をしてみたいと、ずっと考えている。

被害者を、孤立させてしまってその人たちの自立の
努力を遮ってしまうことが一番の問題で
肝心なのは被害者にも選択の権利がある、ということです。
選択の権利と、自由の余地。
被害者だから、何もさせてもらえない?
それじゃあ、犯人と同じにされているように
受け止めるでしょう。
いつか、犯人に対する恨みつらみがまた、スパイラルになる。
だって、例えばテロの被害者を保護するという理由で、
「あの人は特別だから・・・」
と被害者を扱ったら、理由がわからない人には、
「そんなに特別な人なのか」
と勘違いされても仕方ないわけです。
それが積み重なれば、その被害者は結局孤立していく。
その孤立が、誤解を生む。
結局、本当の被害者を孤立させてひいては、
犯人と同じにしてしまうのだから。
その孤立が生むものは、犯人や事件への憎悪だけですよね。
事件全体が憎い、その地名が憎い。
それは、次の事件への引き金になる恐れがある。

イスラム国の一件をみれば、よくわかる。負の応酬になる。
あえて、ここに記してしまうけど。
読んでいて不快になったらごめんなさい。
行方不明や被害にあった方々のご家族は、
おそらくそう思うはずです。
幸せを祈りたくたって、綺麗事にしかきこえないはず。

そう思いながら、いつもこのブログを更新しています。
わたしは、今は平和について考えられる。
その幸せに、とても感謝をしています( ´ ▽ ` )ノ




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